29日。大会期間中観光バスの先頭には毎回、公安のパトカーがけたたましいサイレンを鳴らしながら先導していたが、福州から福清への高速道路も同じく8輛の観光バスを先導中多少の渋滞があり、前方との間が途切れてしまった。
車窓の右側に若い兵隊さんたちを乗せた車輛が何台も連なり(多分演習)、こちらが手を振ると後方向きの番兵さんはにっこりホホ笑み返し、両側の手に銃をもつニキビ顔の兵士も手を振ってくれた。バスの運転手さんはその車輛につられ「福清・宏路」 出口で降りてしまい、料金所付近で上を走行中の同僚車輛からの合図音を聞き、あわてて料金所をUターン、急いで「魚渓」出口へ向かった。その出口で全車集結。
そこから、またパトカー先導で江陰工業集中区の港湾施設の投資説明箇所へ行った。 私にはその資格が無いので回りを観察するだけに留まった。巨大なレールのあるクレーンはおそらく東京や横浜に負けず劣らずであろう。トイレも新装された税関入出境庁舎で済ませ、いざ出発、問題発生。 途中万福寺へ寄ると午後からの探親時間が後の行事に差し支えるとのこと。 残留車輛は衆議一決福清・融僑大酒店の昼食会場へ。
午後1時、 金沢の林同安さんの配慮でタクシーを予約。然し、予定していた人たちが集まらない。案の定一部観光バスが万福寺経由で戻って来た。その人たちには残念ながら、昼食は遠慮して貰い、早々に出発することにした。私たちの車には我が妻の従兄弟が来ていたので長崎の弟林薫氏と私四人の合計三台で東瀚へ向かった。
86年私が最初に来たときは福州から福清まで舗装のはげかけた道をタクシーで2時間、 福清から高山まで同じく2時間、 高山からの道程は舗装されてない石ころ道を西安まで30分。往復10時間のハードスケジュールであったが、今は、福清から文関まで1時間弱の道程。その変化ぶりに感心する。親たちが見たらさぞや肝をつぶすであろう。道路がよく、車が早いので外の景色を見なかったが、ごつごつした岩や石ころを余り見かけない。
20年ぶりの親たちの愛した鎮、郷、田舎である。見る見るうちに真っすぐ行くと西安、そこを右に折れると我が妻の父が生まれ育った故郷「文関」。親が故郷を慈しみ子孫を愛し建てた「文関林優楼」の校門前で校長先生が爆竹を鳴らし、小学生たちも熱烈歓迎してくれた。今度は、校門前の伯父さん宅で爆竹、その隣の伯父さん宅でも爆竹の歓迎歓迎歓迎。余り長居したり、ご近所回りすると、キリが無いので、早々に切り上げることにする。都合の良いことに横浜のKさんが後を引き継いでくれたので、我が妻は後ろ髪を引かれる思いで、別れを惜しんだであろう。
私も時間があれば、父の生まれ故郷・東亭へ行きたかったが、集合時間が迫っていたので、次の機会を期待する。途中、東瀚の僑聯・僑の建物を見せて貰ったが、現在管理者や事務所が無く荒れ放題である。鎮のど真ん中にあり、非常に勿体ない。改修しようにも、費用がかかり、なすすべも無いだろう。
小学校も昔と違い交通事情と経済力の向上で、町や市の学校に通い始め、生徒数も減り、教師も不足しているのではなかろうか。再考させられる問題である。
本編に戻り、交通事情の改善により、何組かを残し、ほとんどの探親組が早く戻り、シャワーを浴びる余裕があった。閉会式も特記することはなく、滞りなく、大会の鍵は熊本から、次回開催地福岡へ渡され無事終了。(詳細は華僑報参照)
28日、福州のホテルの近くで依頼した、デジカメの現像も、西湖大酒店日本人女性副経理と福建中旅の張白帆女史の尽力で手元に届き、東京組の反省会をマイルームで青島ビールを片手に大いに語りあった。
翌早朝、関西グループの武夷山行きは既に出発し、東京JAL厦門土楼(客家)経由組を見送り、私たちは残留組に見送られ、厦門へ向かった。
3時間程で市内到着、さすがに市街中心部はお昼前の渋滞、お久しぶりである。お任せの昼食は、私も好みであるが、おそらく、案内役新宿のSさんのオーダーではなかろうか。四川料理バリバリ、テーブルに出てくるもの全て辛い、隣に座った千葉のIさんは顔が真っ赤になり、頭から湯気が出ていた。
厦門高崎国際空港のANAカウンターには前掲の潘さんが待ち受け、荷物託送を手伝って貰った。横浜から参加のTさんも加え一路成田へ。
今回の旅は、先行単独でベトナム探索研究していただいた、新宿のSさんと華聯旅行社のご厚意により、楽しく美味多彩なベトナム紀行。デジカメ現像と壊れ旅行カバン処理で福州西湖大酒店の日本人女性副経理及び福建中国旅行社の張白帆女史ほか関係機関にはご迷惑をかけ、お世話になった。紙上をお借りして深く御礼申し上げます。 楽しく思い出に残る素晴らしい旅をありがとう。謝々、再見!
そこから、またパトカー先導で江陰工業集中区の港湾施設の投資説明箇所へ行った。 私にはその資格が無いので回りを観察するだけに留まった。巨大なレールのあるクレーンはおそらく東京や横浜に負けず劣らずであろう。トイレも新装された税関入出境庁舎で済ませ、いざ出発、問題発生。 途中万福寺へ寄ると午後からの探親時間が後の行事に差し支えるとのこと。 残留車輛は衆議一決福清・融僑大酒店の昼食会場へ。
午後1時、 金沢の林同安さんの配慮でタクシーを予約。然し、予定していた人たちが集まらない。案の定一部観光バスが万福寺経由で戻って来た。その人たちには残念ながら、昼食は遠慮して貰い、早々に出発することにした。私たちの車には我が妻の従兄弟が来ていたので長崎の弟林薫氏と私四人の合計三台で東瀚へ向かった。
86年私が最初に来たときは福州から福清まで舗装のはげかけた道をタクシーで2時間、 福清から高山まで同じく2時間、 高山からの道程は舗装されてない石ころ道を西安まで30分。往復10時間のハードスケジュールであったが、今は、福清から文関まで1時間弱の道程。その変化ぶりに感心する。親たちが見たらさぞや肝をつぶすであろう。道路がよく、車が早いので外の景色を見なかったが、ごつごつした岩や石ころを余り見かけない。
20年ぶりの親たちの愛した鎮、郷、田舎である。見る見るうちに真っすぐ行くと西安、そこを右に折れると我が妻の父が生まれ育った故郷「文関」。親が故郷を慈しみ子孫を愛し建てた「文関林優楼」の校門前で校長先生が爆竹を鳴らし、小学生たちも熱烈歓迎してくれた。今度は、校門前の伯父さん宅で爆竹、その隣の伯父さん宅でも爆竹の歓迎歓迎歓迎。余り長居したり、ご近所回りすると、キリが無いので、早々に切り上げることにする。都合の良いことに横浜のKさんが後を引き継いでくれたので、我が妻は後ろ髪を引かれる思いで、別れを惜しんだであろう。
私も時間があれば、父の生まれ故郷・東亭へ行きたかったが、集合時間が迫っていたので、次の機会を期待する。途中、東瀚の僑聯・僑の建物を見せて貰ったが、現在管理者や事務所が無く荒れ放題である。鎮のど真ん中にあり、非常に勿体ない。改修しようにも、費用がかかり、なすすべも無いだろう。
小学校も昔と違い交通事情と経済力の向上で、町や市の学校に通い始め、生徒数も減り、教師も不足しているのではなかろうか。再考させられる問題である。
本編に戻り、交通事情の改善により、何組かを残し、ほとんどの探親組が早く戻り、シャワーを浴びる余裕があった。閉会式も特記することはなく、滞りなく、大会の鍵は熊本から、次回開催地福岡へ渡され無事終了。(詳細は華僑報参照)
28日、福州のホテルの近くで依頼した、デジカメの現像も、西湖大酒店日本人女性副経理と福建中旅の張白帆女史の尽力で手元に届き、東京組の反省会をマイルームで青島ビールを片手に大いに語りあった。
翌早朝、関西グループの武夷山行きは既に出発し、東京JAL厦門土楼(客家)経由組を見送り、私たちは残留組に見送られ、厦門へ向かった。
3時間程で市内到着、さすがに市街中心部はお昼前の渋滞、お久しぶりである。お任せの昼食は、私も好みであるが、おそらく、案内役新宿のSさんのオーダーではなかろうか。四川料理バリバリ、テーブルに出てくるもの全て辛い、隣に座った千葉のIさんは顔が真っ赤になり、頭から湯気が出ていた。
厦門高崎国際空港のANAカウンターには前掲の潘さんが待ち受け、荷物託送を手伝って貰った。横浜から参加のTさんも加え一路成田へ。
今回の旅は、先行単独でベトナム探索研究していただいた、新宿のSさんと華聯旅行社のご厚意により、楽しく美味多彩なベトナム紀行。デジカメ現像と壊れ旅行カバン処理で福州西湖大酒店の日本人女性副経理及び福建中国旅行社の張白帆女史ほか関係機関にはご迷惑をかけ、お世話になった。紙上をお借りして深く御礼申し上げます。 楽しく思い出に残る素晴らしい旅をありがとう。謝々、再見!