東日本大震災発生後、多くの華僑華人団体と在日僑胞は様々な方法で被災者支援活動を行っております。
留日華僑北省同郷聯合会青年部の責任者で、東京都中央区八重洲で餃子老店「泰興楼」を営む于延光さんと中国料理「蓬莱」を営む王肇元さんらは去る4月29日、深刻な被害に遭った宮城県石巻市に赴き、ボランティア活動を行いました。
于さんらの行動は日本で生まれ育った華僑が、生まれ故郷である日本で発生したこの度の大震災を日本の人びとと同様に自分たちのことと感じていることを十分に体現したものといえます。
本紙はこの貴重な体験を是非紙面に紹介したいとの思いから、特に于延光さんにお願いし、手記を寄せていただきましたので、ここにご紹介いたします。(編集部)
この度は、東日本大地震で被害にあわれた皆様に心からお見舞い申し上げます。また、犠牲になられた方々とご遺族の皆様に対し、深くお悔やみを申し上げます。
私、于延光と王肇元と有志一名の計三名で宮城県石巻市にボランティア活動をしてまいりました。時は既に震災から一ヶ月半が過ぎていたという事もあり、まず到着した仙台駅は徐々に震災前の姿に戻りつつあるように見受けられました。仙台駅からレンタカーで石巻に入る道中、仙台市内とは打って変わり、至る所で道路が変形していたり、国道に面している殆どの会社や店舗などは営業をしていません。よく見るとそれら建物壁面の地上から約1,5mくらいの所に津波の水位痕が見て分ります。それら水位痕からみても今回の津波の凄まじさを想像出来ました。
石巻災害ボランティアセンターに到着すると、自衛隊やボランティアの方々がキャンプテントを張り、復興に向けて一生懸命に努力をしてる様子が伝わってきました。私たちもすぐに準備をし、センターに登録を済ませると、別のボランティア数名と共同で現場を割り当てられました。カーナビを頼りに現場に向う道中、地元皆さんの明日に向かう気持ちとボランティア支援されている方々の強い気持ちが見て伝わってきます。その日、私たちが向かった現場は、ご高齢のお母さんとその息子さん二人で暮らしてるお宅でした。その家の一階部分は津波の被害でほぼ水没し、家の中は泥だらけでした。その日私たちに出来る作業は泥だしと水害により使用不可能になった家財を家の外に運び出すことでした。このご家族にとっては震災の復興に十年、二十年またはそれ以上の長いスパンである事は間違いないのです。作業を終え私たちグループが今日した支援が、ご家族にとって長い道のりの一歩にでもなったなら、幸いだと思うばかりでした。
その晩、防災センターにて車泊する予定だった私たちは、準備していた食物を食べながら意見交換をしていると、阪神淡路大震災以降日本においてボランティア活動をしているアフリカ人ボランティアの方と出会いました。その経験豊かなアフリカ人ボランティアさんから教えてもらった事があります。彼が言うにはボランティア活動は苦しむ事ではなく逆に笑顔でする事だと。ボランティア活動に行く人たちの目的は元気づけに行くわけですから当然の事です。振り返ると、初日私たちは被災された方々や被災地を目の当りにして何か非常に重い気持ちになっていたのは事実です。勉強になりました。
翌日私たちは十人弱でチームを組み、再びカーナビ頼りで現場に向かいました。今回は地理に詳しくなくても沿岸に向かっていると感じながら長いトンネルを抜けると、 そこは正にニュース等で放映されていたあの悲惨な映像そのもののエリアでした。唯一映像では伝わってこなかった周辺のニオイは今回の津波の威力を物語っていました。現場は大きな川のすぐ近くで、やはり泥だしや瓦礫の撤去等がメイン作業でした。そこの地元の人が言うには地盤沈下がひどく、満潮時は震災後も浸水するらしく今後人が生活するのは困難との事です。作業中は昨晩アフリカ人に気づかされた 笑顔で作業する事の大切さ!を思い出しながら出来る限りの支援をしましたが、この地元の方々のこの先長い苦労を考えると本当に心が痛みます。その日は午前の部と午後の部それぞれ別現場での作業を終え、事後報告を済ませて石巻を後にし、仙台に戻りました。
同じ宮城県ですが仙台は活気に溢れていました。その証拠に仙台では至る所に“仙台!自粛の自粛!頑張ろう宮城!”という文字を目にしました。石巻とのギャップに多少違和感は感じましたが、別の考え方をすれば経済が活性化しなければ宮城県(日本)が終わってしまうという意味で活性化は絶対不可欠な行動だと、東京にいた時より強烈に感じさせられました。元の生活に早く戻る!という事なのでしょう。今回のボランティア活動を通じ、幾つかの事を気づきました。ボランティアは元気に明るく笑顔でする。復興支援は出来る事からする。そして決して忘れない。以上の事をしっかりと心に記憶し、また華僑であることを誇りに思いながら次世代の華僑のためにも、生まれ故郷であるこの日本のために微力ながら出来る事をして参りたいと思います。日本、加油!加油!加油!(于延光)
于さんらの行動は日本で生まれ育った華僑が、生まれ故郷である日本で発生したこの度の大震災を日本の人びとと同様に自分たちのことと感じていることを十分に体現したものといえます。
本紙はこの貴重な体験を是非紙面に紹介したいとの思いから、特に于延光さんにお願いし、手記を寄せていただきましたので、ここにご紹介いたします。(編集部)
この度は、東日本大地震で被害にあわれた皆様に心からお見舞い申し上げます。また、犠牲になられた方々とご遺族の皆様に対し、深くお悔やみを申し上げます。
私、于延光と王肇元と有志一名の計三名で宮城県石巻市にボランティア活動をしてまいりました。時は既に震災から一ヶ月半が過ぎていたという事もあり、まず到着した仙台駅は徐々に震災前の姿に戻りつつあるように見受けられました。仙台駅からレンタカーで石巻に入る道中、仙台市内とは打って変わり、至る所で道路が変形していたり、国道に面している殆どの会社や店舗などは営業をしていません。よく見るとそれら建物壁面の地上から約1,5mくらいの所に津波の水位痕が見て分ります。それら水位痕からみても今回の津波の凄まじさを想像出来ました。
石巻災害ボランティアセンターに到着すると、自衛隊やボランティアの方々がキャンプテントを張り、復興に向けて一生懸命に努力をしてる様子が伝わってきました。私たちもすぐに準備をし、センターに登録を済ませると、別のボランティア数名と共同で現場を割り当てられました。カーナビを頼りに現場に向う道中、地元皆さんの明日に向かう気持ちとボランティア支援されている方々の強い気持ちが見て伝わってきます。その日、私たちが向かった現場は、ご高齢のお母さんとその息子さん二人で暮らしてるお宅でした。その家の一階部分は津波の被害でほぼ水没し、家の中は泥だらけでした。その日私たちに出来る作業は泥だしと水害により使用不可能になった家財を家の外に運び出すことでした。このご家族にとっては震災の復興に十年、二十年またはそれ以上の長いスパンである事は間違いないのです。作業を終え私たちグループが今日した支援が、ご家族にとって長い道のりの一歩にでもなったなら、幸いだと思うばかりでした。
その晩、防災センターにて車泊する予定だった私たちは、準備していた食物を食べながら意見交換をしていると、阪神淡路大震災以降日本においてボランティア活動をしているアフリカ人ボランティアの方と出会いました。その経験豊かなアフリカ人ボランティアさんから教えてもらった事があります。彼が言うにはボランティア活動は苦しむ事ではなく逆に笑顔でする事だと。ボランティア活動に行く人たちの目的は元気づけに行くわけですから当然の事です。振り返ると、初日私たちは被災された方々や被災地を目の当りにして何か非常に重い気持ちになっていたのは事実です。勉強になりました。
翌日私たちは十人弱でチームを組み、再びカーナビ頼りで現場に向かいました。今回は地理に詳しくなくても沿岸に向かっていると感じながら長いトンネルを抜けると、 そこは正にニュース等で放映されていたあの悲惨な映像そのもののエリアでした。唯一映像では伝わってこなかった周辺のニオイは今回の津波の威力を物語っていました。現場は大きな川のすぐ近くで、やはり泥だしや瓦礫の撤去等がメイン作業でした。そこの地元の人が言うには地盤沈下がひどく、満潮時は震災後も浸水するらしく今後人が生活するのは困難との事です。作業中は昨晩アフリカ人に気づかされた 笑顔で作業する事の大切さ!を思い出しながら出来る限りの支援をしましたが、この地元の方々のこの先長い苦労を考えると本当に心が痛みます。その日は午前の部と午後の部それぞれ別現場での作業を終え、事後報告を済ませて石巻を後にし、仙台に戻りました。
同じ宮城県ですが仙台は活気に溢れていました。その証拠に仙台では至る所に“仙台!自粛の自粛!頑張ろう宮城!”という文字を目にしました。石巻とのギャップに多少違和感は感じましたが、別の考え方をすれば経済が活性化しなければ宮城県(日本)が終わってしまうという意味で活性化は絶対不可欠な行動だと、東京にいた時より強烈に感じさせられました。元の生活に早く戻る!という事なのでしょう。今回のボランティア活動を通じ、幾つかの事を気づきました。ボランティアは元気に明るく笑顔でする。復興支援は出来る事からする。そして決して忘れない。以上の事をしっかりと心に記憶し、また華僑であることを誇りに思いながら次世代の華僑のためにも、生まれ故郷であるこの日本のために微力ながら出来る事をして参りたいと思います。日本、加油!加油!加油!(于延光)