
7月28日付新華社電は「『歴史上の犯罪行為に対する無知は一種の罪』──日本市民団体が相模ダムの強制労働の真相を断固守る」と題する記事を配信した。
相模ダムは日本の神奈川県にある。あまり知られていないが、このダムの背後には中国、朝鮮など複数の国の労働者が命を落とした悲惨な歴史がある。
相模湖・ダム建設殉職者合同追悼会が相模湖交流センターで開かれた。周辺住民、小中学生および中国、日本、朝鮮、韓国の政府または市民代表ら350人余りが参加し、相模ダム建設で犠牲となった複数の国の労働者を共に追悼した。
相模原市の本村賢太郎市長は追悼会で次のように述べた。極めて劣悪な条件の下、中国と当時の朝鮮の労働者を含む多くの人が相模ダム建設で命を落とした。「われわれはこの多くの貴重な命によってつくられた歴史を銘記し、次の世代へと継承していく」
相模ダムは相模原市の山あいにあり、日本初の多目的人造湖。現在も水の供給や発電など重要な役割を果たしている。1940〜47年、日本は労働者延べ360万人を徴用してダム建設に取り掛かった。朝鮮半島と日本のほか、日本軍によって強制連行されてきた中国人300人近くも含まれていた。極めて劣悪な労働条件に非人道的ないじめも加わり、大量の労働者が命を落とし、名前の記録が残っているだけでも28人の中国人労働者が犠牲となった。
歴史の真相を守るため、日本人有識者は1976年、「相模湖・ダムの歴史を記録する会」を結成した。ダム建設で犠牲となった複数の国の労働者に関する資料を掘り起こし、1979年以降は追悼会を毎年開いており、半世紀近くたった今でも堅持されている。
70歳余りになる橋本登志子さんは記録する会の立ち上げメンバーの1人で、会長を務めている。橋本さんは27日、強制連行された中国人労働者の被害状況が記載されている「相模湖町史 歴史編」を記者に見せた。「夜明けから日が沈むまで働かされた」「中国人労働者の食事は極めてひどく、トウモロコシのパンだけの日や、飢えて草を食べる者もいた」「栄養不良により206人が皮膚病、48人が胃腸の病気にかかった」といった内容が書かれていた。
犠牲となった外国の労働者を記念するため、神奈川県は相模湖のほとりに「湖銘碑」を設置し、犠牲者の名前と追悼文を刻んだ。2020年、「湖銘碑」の傍らに設置されていた説明板の「捕虜として連れてこられた中国人、当時植民地であった朝鮮半島から国の方策によって連れてこられた方々など」という文の一部が、何者かによって傷つけられた。
圧力に直面しながらも、橋本さんたちがこれまで歴史の真相を守る努力を放棄したことは一度もない。多方面の協力を得て、説明板は修復され、追悼会も毎年決まった時期に開かれている。
「負の歴史であるからこそ、隠ぺいされてはならない。社会全体が落ち着いて負の歴史を話し合い、正視できるようになってほしい」と橋本さんは述べた。
橋本さんは1970年代初め、中国の農村を訪れたことがある。「当時、片目がない老人が突然怒鳴ってきた。言葉は理解できなかったが、声色で怒っていることが分かった」。橋本さんはこう述べ、この時、戦後に生まれた世代として、「戦争には直接参加していないが、手をこまねいているだけでは、本質的には加害者と同じだ」と感じたという。
「歴史上の犯罪行為に対する無知は一種の罪だ」。橋本さんはこう述べた。
在日中国大使館の康暁雷参事官は27日の追悼会で次のように述べた。労働者の強制連行と奴隷労働は日本軍国主義が対外侵略・植民地統治時代に犯した重大な罪である。追悼会の実行委員会は長期にわたって追悼活動の開催と歴史的正義を堅持し、各界の友人と当地住民もまた自発的に花を手向けて哀悼の意を寄せ、平和を呼びかけており、実際の行動によって「不再戦」の信念と決心を表明している。歴史を心に刻むことは、人々の平和への憧れと堅持を喚起するために必要である。
今年は世界反ファシズム戦争勝利80周年だ。相模湖の歴史調査に参加してきた記録会メンバーも高齢化が進んでいる。間もなく会長職を引き継ぐ古澤めいさんはこの歴史を引き続き語り継いでいくと述べ、次のように続けた。「私たちが語らなかったら、この歴史は最終的に忘れられてしまうだろう。私たちには、子どもたちにここで起きた事実を知ってもらう責任がある。それは過去の歴史ではなく、今まで続いている歴史である」
尚、7月27日に開かれた相模湖・ダム建設殉職者合同追悼会には東京華僑総会から銭江麗子会長、王暁事務局長が参列した。
写真説明:康暁雷参事官(左2)と記念撮影。左から東京華僑総会・銭江麗子会長、横浜・陳宜華会長、符順和氏
相模湖・ダム建設殉職者合同追悼会が相模湖交流センターで開かれた。周辺住民、小中学生および中国、日本、朝鮮、韓国の政府または市民代表ら350人余りが参加し、相模ダム建設で犠牲となった複数の国の労働者を共に追悼した。
相模原市の本村賢太郎市長は追悼会で次のように述べた。極めて劣悪な条件の下、中国と当時の朝鮮の労働者を含む多くの人が相模ダム建設で命を落とした。「われわれはこの多くの貴重な命によってつくられた歴史を銘記し、次の世代へと継承していく」
相模ダムは相模原市の山あいにあり、日本初の多目的人造湖。現在も水の供給や発電など重要な役割を果たしている。1940〜47年、日本は労働者延べ360万人を徴用してダム建設に取り掛かった。朝鮮半島と日本のほか、日本軍によって強制連行されてきた中国人300人近くも含まれていた。極めて劣悪な労働条件に非人道的ないじめも加わり、大量の労働者が命を落とし、名前の記録が残っているだけでも28人の中国人労働者が犠牲となった。
歴史の真相を守るため、日本人有識者は1976年、「相模湖・ダムの歴史を記録する会」を結成した。ダム建設で犠牲となった複数の国の労働者に関する資料を掘り起こし、1979年以降は追悼会を毎年開いており、半世紀近くたった今でも堅持されている。
70歳余りになる橋本登志子さんは記録する会の立ち上げメンバーの1人で、会長を務めている。橋本さんは27日、強制連行された中国人労働者の被害状況が記載されている「相模湖町史 歴史編」を記者に見せた。「夜明けから日が沈むまで働かされた」「中国人労働者の食事は極めてひどく、トウモロコシのパンだけの日や、飢えて草を食べる者もいた」「栄養不良により206人が皮膚病、48人が胃腸の病気にかかった」といった内容が書かれていた。
犠牲となった外国の労働者を記念するため、神奈川県は相模湖のほとりに「湖銘碑」を設置し、犠牲者の名前と追悼文を刻んだ。2020年、「湖銘碑」の傍らに設置されていた説明板の「捕虜として連れてこられた中国人、当時植民地であった朝鮮半島から国の方策によって連れてこられた方々など」という文の一部が、何者かによって傷つけられた。
圧力に直面しながらも、橋本さんたちがこれまで歴史の真相を守る努力を放棄したことは一度もない。多方面の協力を得て、説明板は修復され、追悼会も毎年決まった時期に開かれている。
「負の歴史であるからこそ、隠ぺいされてはならない。社会全体が落ち着いて負の歴史を話し合い、正視できるようになってほしい」と橋本さんは述べた。
橋本さんは1970年代初め、中国の農村を訪れたことがある。「当時、片目がない老人が突然怒鳴ってきた。言葉は理解できなかったが、声色で怒っていることが分かった」。橋本さんはこう述べ、この時、戦後に生まれた世代として、「戦争には直接参加していないが、手をこまねいているだけでは、本質的には加害者と同じだ」と感じたという。
「歴史上の犯罪行為に対する無知は一種の罪だ」。橋本さんはこう述べた。
在日中国大使館の康暁雷参事官は27日の追悼会で次のように述べた。労働者の強制連行と奴隷労働は日本軍国主義が対外侵略・植民地統治時代に犯した重大な罪である。追悼会の実行委員会は長期にわたって追悼活動の開催と歴史的正義を堅持し、各界の友人と当地住民もまた自発的に花を手向けて哀悼の意を寄せ、平和を呼びかけており、実際の行動によって「不再戦」の信念と決心を表明している。歴史を心に刻むことは、人々の平和への憧れと堅持を喚起するために必要である。
今年は世界反ファシズム戦争勝利80周年だ。相模湖の歴史調査に参加してきた記録会メンバーも高齢化が進んでいる。間もなく会長職を引き継ぐ古澤めいさんはこの歴史を引き続き語り継いでいくと述べ、次のように続けた。「私たちが語らなかったら、この歴史は最終的に忘れられてしまうだろう。私たちには、子どもたちにここで起きた事実を知ってもらう責任がある。それは過去の歴史ではなく、今まで続いている歴史である」
尚、7月27日に開かれた相模湖・ダム建設殉職者合同追悼会には東京華僑総会から銭江麗子会長、王暁事務局長が参列した。
写真説明:康暁雷参事官(左2)と記念撮影。左から東京華僑総会・銭江麗子会長、横浜・陳宜華会長、符順和氏